ボラ市民ウェブ
イベント・講座

【波止場てつがくカフェ】
「<反社会的>って、どういう意味?」(第21回波止場てつがくカフェ)

  • 1時間~可
  • 初心者歓迎
  • 中高生歓迎
  • 親子歓迎
  • 見学・体験歓迎
  • 話し相手・傾聴
受付は終了しました
 

ID:46291

※この情報の内容は受付を終了しています。連絡先など変更されている場合がありますのでご注意ください。

キーワード:
傾聴哲学対話表現論理
活動テーマ:
人権・平和 、 地域・まち・居場所づくり 、 マイノリティ・さまざまな人への支援 、 その他
団体名:
波止場てつがくカフェ

趣旨

「反社会的集団」への“闇”営業――。

組織的に詐欺を行なっていたグループの催事に、契約先の芸能事務所を通さず営業を行い収入を得たとして、少なくない人数のお笑い芸人が活動を自粛せざるを得なくなったと話題になっています。

知らずして接触をもつことすら「落ち度」として、非難の対象とされるわけですが、ところで「ヤクザ」や「反グレ」と呼ばれる集団は、どうして「反社会的」だと言われるのでしょうか?

暴力を肯定しているからでしょうか?

犯罪を目的としているからでしょうか?

あるいはそうした人達が、とにかく「ガラ」の悪い、「怖い」人達だからでしょうか?

「反社会的集団」については、多くの問題が指摘されています。

でも、それでは「反社会的」であるとはどのようなことを指すのか――何だか腑に落ちる説明が、見当たらないようにも感じます。

一方で、いわゆる「アウト・ロー」の世界は、今も昔も娯楽のテーマとして、その中心に存在しています。

「海賊王に俺はなる」(『ONE PIECE』)

「弾はまだ残っとるがよう……」(『仁義なき闘い』)

「赤城の山も今宵限り~」(『国定忠治』)

ヤンキー、任侠、海賊・・・こうしたカルチャーは、「社会」とどのような関係にあるのでしょうか?

「反社会」性とは、「エンタメ」の枠内でのみ許容されるもの、ということなのでしょうか?

一体「社会に反している」というのは、どのような状態を指しているのでしょうか?

「社会」とは一体、私達にとって、何であると言えるのか。

「コンプライアンス」の言葉が叫ばれる中で、立ち止まって考えてみたいと思います。

主要項目

開催日

2019年8月11日(日)


13:30~

地域

渋谷区

場所

東京ウィメンズプラザ1階(渋谷区神宮前5-53-67)

対象

日本語で日常会話ができる方

申込み方法・備考

最寄り駅:表参道(銀座線・半蔵門線・千代田線)、渋谷駅(JR・東急東横線・京王井の頭線・東京メトロ副都心線)

※会場内には、性別に関わらず、車椅子のまま入室可能なトイレがございます。

申し込み hatoba.de.dialogue@gmail.com


チラシ表

内容

波止場てつがくカフェは、おおむね次のような流れで対話を進めています。

◆テーマを受けての自由な意見交換

通常はその回ごとにテーマをご用意させて頂きます。 そのテーマから出発して、自分たちが「当然」「普通」と考えていることが本当にそうなのか、集まった方々と言葉を交わす中で考えます。

テーマを受けて感じたこと、連想したこと、気になったことなど、なんでも自由にお話していただければと思います。

◆キーワードを選ぶ

1での対話を受けて、問いを立てるために欠かすことができないと思われるキーワードを挙げます。また、必要に応じて、キーワードと考えられる言葉の定義を確認します。

◆問いをたてる

キーワードを手がかりにしながら、私達の日常の「当たり前」を根源的に問い直すような問いを考えます。

◆問いに対応する答え」を考える

問いが立ち上がれば、自ずと答えも立ち上がるものと思います。

たったこれだけなのですが、ちょっとした事前説明と休憩をいれて、だいたい2時間30分~3時間ほどの時間を要します。

長い・・・とお感じの方もおられるかもしれません(笑)

じっくり話を聞き、丁寧に考えていくことは、なかなかに時間がかかります。

でも、気付いたらあっという間に時間が過ぎていた、ということも。

むしろ時間が全然足りなかった、ということの方が多いくらいだと感じます。

もちろん、途中で飲食をしていただいて構いません。

リラックスした気持ちで対話をお楽しみいただければと存じます。

波止場てつがくカフェQ&A

https://introduction.hatoba-de-dialogue.net/p/front.html

この情報に関するお問い合わせ

hatoba.de.dialogue@gmail.com

団体紹介
団体名称 : 波止場てつがくカフェ
Q.「哲学カフェ」ってなに?

哲学カフェとは、フランスの哲学者マルク・ソーテが1992年、パリにあるカフェ・デ・ファールで、・・・という感じの説明は、既に多くの書籍や詳しい解説のサイトがあるので、是非そちらを参照を。

私たちがこの言葉を説明する際に困ったなぁ、と感じるのは、「哲学」という言葉がもっぱら、単に“学問ジャンル”を指すものとしてしか理解されていないということです。

本に書かれた「哲学者」の名前。

難しそうな表情の肖像画。

書き並べられる思想と格言。

そうした内容を理解し、論じること――。

もちろん、それが“取るに足らないもの”なのだという風には全く思っていないのですが、私たちの考える哲学は、そういうものでは全然ないです。

私たちの考える哲学。

それは、自分の「当たり前」が問い直されること。

普段「当たり前」としてきたものが、本当はどのようなものなのか、考えてみること。

そしてその作業を、自分以外の誰かとの<対話>を通じて行うということ。

つまり私達の日常を、自分たちの血が通った言葉で、<共に>考えてみること。

そういうものが、私たちが発信したい「哲学」であり、<てつがく>です。