(2005年12月9日 / 秋山 弘 )
あじさいさん
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落ち葉の舞い散る午後、紙袋をさげて、古本屋にでかけました。
本を買い取ってほしい旨カウンターで伝えますと、札(ふだ)を渡されました。
札には「あじさい」と書かれていました。
仕事中ネームプレートを首からさげるのと同じ感覚で、
私はもらった札を胸につけました。
待つ間、ぶらぶらと人文書のコーナーに行きました。
パスカルの「パンセ」がふいに読みたくなったからです。
「パンセ」はありませんでした。
ではベルクソンはないかと思って、ベルクソンをさがしました。
ベルクソンもありませんでした。
私はのばそうと準備していた手で、べつの本をとりました。
それは『意志的なものと非意志的なもの』という本で、
ポール・リクールという、やはりフランス人が書きました。
ぱらぱらとめくっていると、つぎのような文が目にとまりました。
咳をしたりくしゃみをしたりするのを我慢しようとしているパトロール中の兵士は、
抑制不能なものと抑制可能なものとの境界線にいるのだ。この兵士が、彼のへまに
よって奇襲を失敗させたとして告発され、<咳やくしゃみは人間の責任なのか>と
いう深刻な問いが軍法会議で議論されるということも想像しうる。(407頁)
「人間の責任」という重いことばが、こんな使われ方もする。
私は笑いたいような顔をしていたと思います。
そのとき場内アナウンスが聞こえてきました。
≪本の精算をお待ちの「あじさいさん」。精算がおわりましたので、カウンターまでお越しください。≫
私は自分の胸につけた札を見ました。そこには「あじさい」と書かれてありました。
呼ばれているのは、自分だ! と思い、いそいそとカウンターに向かいました。
ずいぶん年をとったような感じがしました。
カウンターで短い説明を受け、現金と400円分の割引券を受け取りました。
さようなら、私の本よ! 私は名残惜しげに店内を一周し、
さきほどのリクールの本を買って帰りました。