市民社会をつくるボランタリーフォーラムTOKYO 2020

生きづらい子育てに向き合う
~ 私の人生でできること
水月琉凪(みづきるな)さん
(生きづらい子育てピアの会東京 代表)

20代で双極性障害になった

国語教師の父と書道塾をしていた母のもと、東京で育ちました。私、一人っ子なのですが、母にとっては3人目の子でした。流産、死産、そして私だったのですね。それで「あなたには3人分の期待がかかってる」と言われて育ちました。子どもの頃は「期待に応えなきゃ」という感じだったのですけど、大きくなるにつれてどんどん重くなっていきました。母は過保護・過干渉で、実際のところ最近までその支配下にあった感じです。


小学校時代はいじめに遭っていました。仲間外れ、暴言、暴力。かなりしんどかったです。でも親に迷惑をかけられないので、不登校はしませんでした。そもそも学校に行かなくていいなんて発想がなかったのです。中学はいじめっ子と別になり、テニス部に入って仲間もできました。高校2年からは演劇部とフォークソング部に移りました。中学・高校は楽しかったです。


小学生の頃から「少年団」という子ども会のような地域の活動に参加していました。そこでは高校生になると指導員という立場になります。大学に入っても活動を続けていたのですが、メンバーが減って私一人で背負っている感じでした。ある時、他の少年団と合同でキャンプをすることになりました。ところが進めていく中で指導員と父母が揉めてしまい、私は両方から責められ板挟みになってしまいました。その上、彼氏も同じ少年団の指導員だったので、彼とも激しい言い争いになってしまいます。気分がどんどん落ちていって、自分でもだめだと思うほどでした。そんな折に高校の先輩が自死したという報せを受け、そこでもう、引き金というか…。完全にうつになってしまいました。普通の時は、落ち込んでも上がってこられるのですが、その時はどう努力しても上がってこれなくて。自分でも「おかしい」と思い病院に行きました。大学3年生の秋でした。病院では「うつ状態」と言われました。父は理解しようとしてくれたのですが、母はただひたすら心配するという感じで、放っておいてほしい時にもとにかく構ってくるので、辛かったです。しばらくして親の足音を聞くだけでパニックになるようになってしまい、親と一緒にいられる状態ではなく、入院しました。退院後に一人暮らしを始めましたが、実際には一人で生活できる状態ではなかったですね。家事もできないし、とにかく自責、自己否定がひどくて、自分に絶望して、死にたい消えたいという思いが強く、オーバードーズもありました。


もともと、すごい勢いでグワっと頑張って、ちょっと休んで、またグワっと頑張る…というところはあったのですが、躁になったのは、大学卒業後です。その頃、劇団で芝居をしていたのですが、突然「脚本を書く」と言い出しまして。書くのはいいのですけど、沖縄とレイプというすごく重いテーマを抱え込んでしまって、書いては倒れ…という生活になったのです。彼氏に止められても、絶対やめない。同時にその人を傷つけているような気持ちにもなって、自分も傷つけないと気が済まなくなって、リストカットというか、体中切り刻むような状態でした。結局、上演翌日に病院に行き、その場で入院、双極性障害の診断がつきました。うつの時と違って躁は「普段と違う」自覚はなく何が起きているのか全くわからなかったです。



最初は子育てから逃げたかった

今の夫は、その時期に相談相手だった人です。退院後、夫に会いに行って、結婚を決めちゃいました(笑)。そしてほどなく妊娠しました。最初に暮らしたのは海の近くの田舎町でした。その後、夫の実家の隣へと引っ越しますが、知り合いもいない、ママ友もできない、出かけていくところもない。ずっと息子と二人きりで家にいる生活でした。それでも最初は一人で頑張ろうとしていました。妊娠後から勝手に薬を止めていたのですけど、離乳食に移行していく辺りから段々おかしくなってきて。自分でも「やばい」と思って教育相談所に駆け込んで、病院を紹介されました。断乳後また薬を飲むようになったのですが、一気に体調を崩してしまって、1歳の息子を夫の実家に預けて入院しました。そのときの主治医によってのちにADHDの診断を受けました。息子もADHDがあるのですが、まさか自分もだとは思っていませんでした。言われた時「そういえば思い当たる事がいっぱいある」みたいな感じでした。躁の時はADHDの衝動性や特性が強く出る感じです。


最初は、子育てから逃げたくて仕方なかったです。一人ぼっちで辛くて、どうしていいかわからない。うつの時は動けないから息子を夫の親に預ける、躁の時は遊びたいから息子を母に預けるという感じで、ほぼ子育てしてなかったんじゃないかな。


そんな私が真正面から息子に向き合うようになった大きなできごとがありました。息子が小3で不登校になり始めた頃、毎日「死にたい。母ちゃんのせいだ」と言われました。夫からも義父母からも責められ、限界になった私は家出しました。すぐに見つかって連れ戻されたのですが、その夜息子とお風呂で約束したんです。「もうお互い死ぬって言うのはやめよう」と。そこから私は息子を最優先する生活になりました。その約束は今でも二人の間で守られています。


息子には発達障害があり、小5の時には強迫性障害も出ました。今は少し落ち着いてきましたが、潔癖で自分が判断した「綺麗・汚い」の区分けへの強いこだわりがあります。息子が中学生になる時に、夫を残して息子と二人東京の実家に戻ってきたのですけど、母は認知症の症状が出ていて息子の潔癖のルールが覚えられず、お互い暴言暴力が出るようになって、とても一緒には暮らせないので息子とアパートに移りました。半年後母がグループホームに移った後でまた実家に戻りました。夫とは今も離れていますが、とても感謝していますし、関係も良好です。



共感・共有できる仲間が必要

東京に戻ってきて初めて当事者会の存在を知りました。それまで病院の外で双極性障害の人と会ったことがなくて。2つ目に参加した会で「なにこれ!楽しい!」とはまりました(笑)。「みんな前向きに生きてる」、「双極でも人生楽しめるんだ」って。こういう場をずっと求めていたんだと思います。


今、リアルとオンラインでの子育てカフェとSNSでの情報発信をしています。ずっと、自分の人生で何ができるんだろうって考えていました。私には精神疾患と闘いながら子育てしてきた経験がある。そして同じような状況の人たちが今もたくさんいます。そこで、精神障害のある親のコミュニティを作りたいと思ったんです。集まりで一番よく話されるのは「体調が悪い時に子どもとどう接するか」というテーマです。あとは、妊娠時の減薬、他のママ友と悩みがずれる…などです。なかなかわかってもらえない悩みばかりなので、体験を「わかる」って言ってもらえることは大きいです。共感する・される安心感って、希望にもなります。みんな「自分はダメな親だ」と思いながらも一生懸命に親であろうとしています。一番苦しんでるのは本人なんだということを多くの人にわかってほしいです。誰にも相談できず、相談してもわかってもらえない。だから、苦しみが理解されて、思いやってもらえて、手助けしてもらうことで、その人が親でいられるような状態をつくっていくことは大事だと思います。それには共感・共有できる仲間が必要で、そこに当事者会の意義があると思います。