市民社会をつくるボランタリーフォーラムTOKYO 2020

存在価値を取り戻し、社会的孤独を
解消したい ~ 家から出られない
外出困難を経験して
つやかさん

天井とにらめっこの日々、自死を考えるまでに

私の場合、「家から出られない」、「出にくい」というような状況は、脳内の器官障害、精神障害によるものです。具合が悪くなってしまうと、起き上がることもできない状況に陥ってしまいます。そうすると家から一歩も、というよりもトイレに行くのも大変な状況になり、外出困難になってしまいました。


病名は、双極性感情障害です。25歳の時に発症しました。通勤している電車の中で、ある日バタッと倒れてしまって、そこからもう記憶が曖昧で、病院に通って何か月もかけて調べたら双極性感情障害であるということがわかりました。最初は違う病名を言われたのですけども…。倒れる前に、何かおかしいなっていうのは感じていました。でも忙しいですし、転職したばかりで…。前職があると言っても社会人2、3年生でしたから仕事に対しても、やらなきゃという気持ちで自分の異変をやり過ごしていました。


「社会的孤独」と私は呼んでいるのですけれども、ずっと寝たきりの状態になってしまい、布団の中で一日過ごし、もう10年近く、社会との接点が断絶されて、非常に孤独感がありました。自分の同世代の子たちは、社会人としてキラキラ輝いていたり、子育てをしているのに、なぜ自分だけがこんなにずっと天井とにらめっこの毎日を過ごさなければならないのだろうと、自分の存在価値を見出せなくなっていました。段々、自死を考えるほどに追い詰められてしまいました。


症状は、酷い倦怠感があり、双極の症状ではないのですけども、私の場合、幻覚や幻聴もありました。誰かが喋っているんじゃないか、わたしの悪口を言っているのではないか、と思い込んでしまって、見えない敵とずっと闘っている状況でした。幻覚とか幻聴には、波があり、結構ハイになっている…というような状況で、落ち込んで行くと共に、物凄い倦怠感に襲われて全く動けなくなる感じです。


当時は独身で、今の夫と同棲していました。同じ会社だったので、一緒に通勤している時に私が倒れて、病気になって、寝たきりになりました。この状態がいつまで続くか分からないですし、トイレに行くのも手伝ってもらっているような状況になってしまいました。夫は、仕事から帰って来て、私を介護して、また仕事に行ってという生活で、もう結婚は無理だろうと思っていました。相手の負担になるだろうと結婚を諦めるしかないと思って、「こんな状態だから別れよう」と言ったのですけど、夫が支え続けてくれ、結婚しました。



症状と闘いながらも生き生きできる場所を求めて

発症した当初は、寝たきりで、孤独感が凄かったです。夫が帰って来るまで誰ともしゃべりません。当時はまだそんなに動画投稿サイトも盛んではなかったし、家でできることは、本当に限られていました。体調的にもそうですし、自分がどこにも必要とされていない、社会のどこにも所属していないという状態が、本当に辛くて。「もう死んじゃおうかな」みたいなことをずっと考えていました。「この苦しみを、他の人に味わってもらいたくない」という強い思いがありました。「あなたは必要とされてる場所があるよ」と。そんな場所がつくれないか、自分が生き生きとしていられる場所をつくりたいと考えていました。社会的孤独から解放され、スキルを活かして人生をカラフルに生きよう、という思いがあるんです。

病気について、夫もあまり知識が無かったものですから、私が幻覚や幻聴を見て、パニックを起こしたら、とりあえず抱き締めて落ち着かせるとか、しんどいと言ったら、おぶってトイレに行かせてくれるとか、介護をしてくれる日々でした。


当時と比べると今は、だいぶ変わりました。症状も幻覚や幻聴というのは暫く見ていないし、落ち込むというのは多少ありますが、それも慣れというか経験で、「今日は調子が悪いから、ちょっと予定を調整しよう」とか、「お薬もらいに行って少し安定させよう」とか、そういう感じで自分の身体と上手くつき合うことができるようになりました。症状としては凄く安定しています。発症当時はどんな症状が出てくるか分からなかったので、それに対して毎回びっくりして、「どうしよう」とその場その場で対応していたのが、「ああ、こういう感じね」みたいな感じで、対処できるようになっていきました。


今は大丈夫なのですけど、親は当時、「何で障害者手帳取るの?」という感じで、障害を認めてくれませんでした。受け止めきれなかったみたいです。「自分の子がそんなことになるとは思ってもみなかった」というような反応をされました。遺伝性だと伝えると「うちにはそんな人はいない」みたいな(笑)。


特に母親はショックを受けていて、わかってもらうまでは凄く大変でした。夫とは違い、両親は一緒に暮らしておらず、大変な部分を見ていないので、「そんな訳がない」と思ったのでしょう。でも、パニックになっている時に電話してしまったり、段々、認めざるを得ないというか、「ああ、こういうふうに苦しんでるんだ」と理解してもらえるようになりました。最近はよく、「やっぱり一番苦しんでるのは本人だから」と言ってくれるようになりましたが、ここまで来るのには10年ぐらいはかかりました(笑)。



外出困難者の出番と居場所をつくりたい

私と同じように家から出られない、出にくい状態の人が沢山いることを知ったきっかけは、病気になった直後のSNSです。自分で情報を集める中で、障害を持った人や障害を持っていなくても社会的に出にくい人が沢山いるのだとすぐ知ることができました。


その当時、動画共有サービスが流行っていて「ああ、この人も私と同じ病気なんだ」と知ったり、うつの方はよく発信されていて「この人もそういうふうに外出困難者なんだ」とインターネットを使っていろいろ調べていきました。そういった人たちと交流を持つことによって、「ああ、私と同じような思いをしてる人っているんだな」と気づいたんです。


苦しかった時期は、動画投稿サイトでひっそりと発信をしていました。そのぐらいです。本当に何もできなかったので。考えることもできない、思いもつかないという感じでした。毎日、生きていくことが精一杯で、今日も一日生きて終わったという感じが大きくて、試行錯誤までにも至りませんでした。それでも、少しして、ヨガの資格取得に挑戦しましたが、やっぱり体調がダメ…と、苦しかったです。今の(自分の身体と上手につき合っていける)状態に持っていけるまで、どうしたらいいか考えたり工夫しては、失敗の繰り返しでした。


こんなに苦しい辛い思いを他の人にさせたくないという気持ち、それが一番大きいです。この気持ちと社会に必要とされたいという自分の欲望に折り合いをつけた時、私が今やっているネットを通じて、同じように外出が困難な人たちといろいろな部活動をする活動は、私にピッタリでした。


外出困難者というのは、政府の調査でも百万人と言われています。コロナ禍で益々、外出しにくくなった人が沢山います。この現状の中でどうやって居場所をつくって行くか。孤独って本当に自死にまで追い込んでしまう。命を落としてしまう人がいることを実際に私は見てきました。そういう人をつくらない、そして外出困難者が沢山いることも知ってもらいたいです。